義父が倒れたのは、1996年11月18日の夜のことでした。
宮崎県の山間地で、兼業農家として生活をしていた主人の両親と、一か月後に、挙式を控えた妹との三人暮らし……。
当時、大分県に住む私たちは、その妹から、突然の知らせを受けました。
脳内出血により緊急手術を行い、一命を取り留めたものの、数日後には、肺炎を併発、気管切開を施され、鼻からの流動食、それに、ほとんど自発運動の出来ない体となってしまいました。
意志の疎通も図れないまま、時折、乳児のような笑顔を見せてくれる義父。
そして、これ以上の回復は、ほとんど見込めないという医師の説明に、家族は、がく然としました。
以前から、故郷に安住の地を求めていた私たちは、これを機に同居し一緒に義父を見ていくことを提案してみました。
両親と子供たちとのふれあいや、のんびりとした田舎での生活を思い描き、幾度かの転勤を経験してきた私たちにとって、それは、あこがれでもあり、いつか実現させたい願いでもありました。
しかし、「考えがあまい」その義母の一言で、私たちの"想い"は一蹴されてしまいました。「自分たちのために、今のあなたたちの生活を壊すことはない」と言われ、理想と現実を履き違えていたような気になり、その時の私には、返す言葉がみつかりませんでした。
それから数か月が過ぎても、義父の状態はあまり変化はなく、献身的に介護を続ける義母を、ただ遠くで見守ることしか出来ないことが、一度はあきらめかけていた故郷への想いを、再ぴ強いものにしていきました。
そんな矢先、義父が倒れた翌年の三月のことです。今度は、義母が腹部の激痛を訴え、同じ病院での検査入院となってしまいました。
連絡を受けてから数週間後、その検査結果と詳しい内容を聞くために、主人が帰省、その時、医師から受けた宣告は、あまりにも過酷なものでした。